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ホロコーストに関するスレにて

悪辣、国連人権委員会を利用した情報戦 -MEMO-

仏国の移民暴動についての報道スレで…アルジェリア問題について知る


2006年07月08日

ホロコーストに関するスレにて

「アンネの日記」は捏造だったらしい…
この手の情報は全く知らなかった。配偶者はなんか本借りて読んでいたらしいが。
以下まとめられたスレをメモ


75 :名無しさん@6周年:2006/07/07(金) 20:27:49 ID:5OJ+gYzj0
>>73
この矛盾説明して。

ホロコースト
・死因がガス死である死体が一体も確認されていないことは肯定論者も認めている。
・証拠となる文書がただの一枚も発見できていないことは肯定論者も認めている。
・「肯定派の最高権威」ヒルバーグ氏は、「ユダヤ絶滅の文書、計画、命令、予算、部署は無かった」と結論している
・いまだに「ガス処刑」の証拠は証言しかない。肯定派によると証人はわずか6名しかいない。
・その証言さえ事実との整合性が全く無い。肯定論者にとってさえ、証言の信憑性は失われつつある。
・一方で、問題の「ガス室とされる部屋」が「遺体安置室」であるとする文書、図面は数多くある。
・装備された換気設備は技術的に見ても明らかに「遺体安置室」に適したものである。
また、換気設備自体が無い「ガス室」もある。

78 :名無しさん@6周年:2006/07/07(金) 20:31:07 ID:5OJ+gYzj0・遺体安置室の設計図には証言で登場する「ガス投入口」が描かれていない。
・ガス投入口が存在しないことは今でも現地で確認できる。投入口を埋めた跡も存在しない。
・遺体安置室が「ガス室」に改築されたことを示す設計図や文書は発見されていない。
・「ガス室とされる部屋」からはガスによる生成物が検出されていない。一方で「害虫駆除室」からは大量に検出されている。
・「遺体安置室がガス室に改造された」のなら「大量の遺体はどこに安置されたのか」が説明できない。
・周辺の軍事工場は隠されていたのに対し、ガスを投入したとされる場所は屋外で遮蔽物が一切無い。
収容所の外や隣の運動場から丸見えであった。
・アウシュヴィッツの焼却炉は合計16万体の遺体を処理するだけの耐久力しかない。そして焼却炉を修復した記録は無い。
・1991年に公表された公式文書によればアウシュヴィッツの囚人の死者は合計13万人。死因はチフスや自然死。
・記録によると搬入された石炭の量は自然死した死者数と合致している。
すなわち、ガス処刑された大量の遺体を焼却するだけの石炭は無い。
・収容所が赤十字を受け入れたのは「ガス殺が始まったとされる時期」より後である。
そして、赤十字は虐殺を確認していない。
・以上のような物理的、技術的な問題により、肯定論者が主張するアウシュヴィッツの犠牲者の数は
400万→150万→100万→63万→36万人…と、どんどん減少しつつある。
・当時ドイツは、工業用の一酸化炭素を大量生産していた。取り扱いが危険なシアンガスではなく、
なぜこれを使わなかったのかの説明はなされていない。

80 :名無しさん@6周年:2006/07/07(金) 20:34:01 ID:I7s4n8Qq0
>>58
うーん…
「逆転ニュルンベルグ裁判! 〜ユダヤの嘘を暴いてナチスの無罪を勝ち取れ!〜」
http://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ruri/
sohiasenseinogyakutensaiban2_mokuji.html
※なぜか長くなってレイアウトが崩れるので改行入ってます。
つなげてください。

かなり読みづらいけど、この辺りかな〜

まあ、俺は「アンネの日記」日本語訳版を読んだ時点で「?」の嵐だったからな
なんで「咳一つ出来ない場所」で「日曜大工」が出来るのか、とか
食料をどうやって仕入れてきていたのか、とか
料理・風呂・排泄についての謎とか

最初から脳内日記としか思えなかったもんな〜

91 :名無しさん@6周年:2006/07/07(金) 20:42:23 ID:5OJ+gYzj0証拠はありまくり。
純粋に学術的興味として読んでみるといい。
ユダヤ人迫害政策の是非を問うのは、まず事実関係をある程度
はっきりさせてからだな。

初級編
http://maa.main.jp/ruri/gulfwar_02_04.html
高等編
http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/
これは余りに膨大なので、お勧めは、まずこのリンクを読むこと。
全ての論点が判りやすくまとめてある。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/000.htm

因みに肯定派サイトはこれ。
否定派がどういう根拠を持っているかよりも、
むしろ肯定派にどういう根拠があるかを知るとよい。
?@ ttp://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/
?A ttp://www.ss.iij4u.or.jp/~mitaka/66qaHTMLs/66qa_title.htm

?Aに対する反論
http://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ruri/gulfwar_02_05_29.html


132 :名無しさん@6周年:2006/07/07(金) 21:20:29 ID:8hlzug620べつにネオナチを支持する気は全く無いが、アンネの日記って
アンネ本人が書いたものでは無く、後にアンネの父親から
依頼された作家が書いたものだろ?
しかも日記がベストセラーになったらその作家と父親が印税
をめぐって裁判しているらしいし。

そんな有難がるもんか?

148 :名無しさん@6周年:2006/07/07(金) 21:48:32 ID:4JEP1BNb0
>>21
成長期にある少女の筆跡が変化するのは当たり前の事ではないか?
あと、ボールペンによる筆記とするのも良く見かけるが、研究者による
メモ書きが挟まれていたものでオリジナルとは無関係。
この手のトンデモ説を信奉するアホどものお陰で南京事件等の見直し
まで同列視されるのが極めて不愉快である。


174 :名無しさん@6周年:2006/07/07(金) 22:23:33 ID:HIPigwYZ0
横レスするけど1951年にナチ戦犯の追及が終ったとたんに
西ドイツ国内では彼らを英雄視する向きがすごい勢いになってしまった、
それを冷やすようなタイミングで発表された出版物がある、その本の名前は

       「 ア ン ネ の 日 記 」 

195 :名無しさん@6周年:2006/07/07(金) 22:46:51 ID:iclr0OyR0生前、アンネが海外に宛てた手紙が残っており、日記の筆跡と全くことなることが既に判明している。

アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった。
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/afrank.htm

209 :名無しさん@6周年:2006/07/07(金) 23:12:02 ID:iclr0OyR0今日アウシュヴィッツに展示されているあの部屋を殺人用ガス室だったと仮定してみよう。すると、まず、この「ガス室」には窓がないことに気付く。
換気扇を付ける場所がないということである。処刑用ガス室では、一回処刑が終わるたびに換気をしなければならない。換気をしなければ、
次の犠牲者たちを「シャワーだ」とだまして「ガス室」に入れることは出来ないのだから。

アウシュヴィッツの「ガス室」で使用されたことになっている「毒ガス」は青酸ガスだが、その物理的性質の一つに、壁や天井に吸着しやすいという
やっかいな性質があり、例えば倉庫などで青酸ガスによる殺虫作業を行なった場合、自然の通風では、殺虫作業後の換気に二十時間前後を
要したとされている。
とすれば、アウシュヴィッツの「あの部屋」が「ガス室」だった場合、換気扇がないのだから、出入り口または天井の小穴(そこから青酸ガスが
投げ込まれたことになっている)から換気したとして、一日に一回しか「ガス室」での処刑は行なえなかった筈である(何という非効率的な
「民族絶滅」だろうか?)。

その上、アウシュヴィッツの「ガス室」には、処刑用ガス室の設計において常に要求される高い機密性がなく、青酸ガスで内部を充満させた場合、
外部に青酸ガスが漏れるのは必至で、外にいるドイツ兵が青酸中毒になってしまうのである。


212 :名無しさん@6周年:2006/07/07(金) 23:15:18 ID:iclr0OyR0サイクロンBの成分であるシアン化水素自体は確かに猛毒だが、使用に際し、長時間の加熱を必要とする。つまり、長時間の加熱を行なわなければ
「毒ガス」それ自体が発生しない。

ここは、非常に重要な点なので分かりやすく説明しよう。DDTを持たなかった第二次世界大戦中のドイツ軍は、このサイクロンBを殺虫剤として
使用していた。が、「ホロコースト」があったと主張する人々が、この殺虫剤サイクロンBが「ガス室」で使われたと主張しているのだ。彼らは、
ドイツが殺虫剤サイクロンBを大量殺人用に転用し、アウシュヴィッツなどの「ガス室」で使用したと、戦後一貫して主張し続けているのである。

これは、「ホロコースト」という物語の核心部分であるが、実は、物理的、化学的、医学的に不可能なことなのである。サイクロンBは、缶に入っている。
テレビドラマや映画では、この缶をドイツ兵が開け、「ガス室」の屋根に取付けられた穴から放り込むと、直ちに缶の中から「毒ガス」が出て、ドイツ兵の 足下の地下式「ガス室」にいる人々が「毒ガス」に悶え苦しみ、死んで行くという場面が描かれているが、これは絶対にあり得ない。
サイクロンBの缶の中身はシアン化水素(HCN)、すなわち青酸ガスが吸着したチョークやパルプのかけらなのである。青酸ガス(HCN)を発生させるには、それらの(青酸ガスを吸着した)チョークやパルプをヒーターで長時間加熱しなければならないのだ。これを燻蒸という。

227 :名無しさん@6周年:2006/07/07(金) 23:44:01 ID:Bjb4McRJ0ユダヤ人迫害を無かったことにしたい奴がいるみたいだけど
ソースはトンデモ本ばっかりなんじゃないの。
ちゃんとした歴史学者の主張なの?

230 :名無しさん@6周年:2006/07/08(土) 00:09:41 ID:+fxMbkPf0
>>227
http://www.shiojiri.ne.jp/~side8/uso.html
こういう意見もある
それに対して
http://www.ss.iij4u.or.jp/~mitaka/hondana/hondana970824.htm
というのもあってよく分からんね

240 :名無しさん@6周年:2006/07/08(土) 00:31:46 ID:mgou/UEu0虐殺などしなくても、収容所で栄養状態悪くて大量に死んでたはず
青酸ガスで効率的に殺すまでも無いのでは。

つまりイスラエル建国のために話がでかくなっていたのは
容易に想像が付く

そしてそのイスラエルが、周辺国を攻撃しているという不思議。

264 :名無しさん@6周年:2006/07/08(土) 00:59:13 ID:Zw1cyrIZ0
>>259
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A8%98

1980年、オットー・フランクがアンネの日記は『日記ではなく小説である』と主張する
エルンスト・ロエーマー等をハンブルクで訴えた名誉棄損訴訟で鑑定が行われ、日記の一部に1951年以前には入手不能な質のボールペンインクが認められたことから、ドイツ連邦犯罪調査局(BKA)は日記が1942年から1944年の間に書かれたとは考えられないと結論した鑑定報告を法廷に提出した。

アンネ・フランクの手書きのテキストについては、1981年にオランダ国立法科学研究所において、紙質、インク、糊などに関する文書調査と筆跡鑑定が行われた。
筆跡鑑定は、フランク家、知人、同級生などから提供されたサンプルを日記と比較して、視覚的特性はもちろん、加齢に伴う字体の変化、筆圧の傾向など様々な側面からアプローチが行われた。調査の全容は270頁の鑑定レポートに纏められ、結果、日記はアンネその人によって書かれたものと結論付けられた。
つまり、ボールペンで書かれた一部と他の部分の筆跡は同じと証明された事となる。
果たして1945年3月に死んだ人間が1951年以降に一般での使用が始まるはずのボールペンを使用して日記を書くという事は可能なのだろうか。

何れにせよその鑑定の結果、エルンスト・ロエマー側の主張の正当性が認められた。


wikipedia アンネの日記リンク再掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A8%98
posted by 紫猫 at 12:36 | Comment(0) | TrackBack(1) | 国際 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月08日

悪辣、国連人権委員会を利用した情報戦 -MEMO-

Irregular Expression さんのページ
悪辣、国連人権委員会を利用した情報戦

この問題についての報道の汚さが一目瞭然。

国連勧告ってもんは「一方の話だけで書かれた報告書に基いて勧告し、反論は受け付けられないし、強制力もない」っていうとんでもなくいい加減なモノだったらしい。

ちなみにこの国連人権委員会への報告書で有名なのは、従軍慰安婦問題について1994年に書かれたクマラスワミ報告書ってのが有るが、これは吉田清治がでっち上げた嘘話を核として書かれていた出鱈目報告書。
あの朝日新聞虚偽報道問題で日本中をお騒がせした松井やよりのバウネットもクマラスワミ報告書を引用して必死に自分らの吊るし上げ法定ゴッコを権威付けしようとしていたな。

その意味でも現代日本においては国連人権委員会の報告書は反日プロ市民(国籍問わず)のお花畑活動の為に存在すると断言しても差し支えないだろう。 

posted by 紫猫 at 18:40 | Comment(0) | TrackBack(1) | 国際 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月06日

仏国の移民暴動についての報道スレで…アルジェリア問題について知る

【フランス】パリ郊外の暴動、沈静化の気配なく 首相が外遊中止 サルコジ内相の「くず」「ごろつき」発言が火に油か(画像あり)
1 :依頼143@試されるだいちっちφ ★ :2005/11/04(金) 14:24:02 ID:???0
パリ――イスラム系移民の少年2人が警察から逃走中に感電死したのをきっかけに、
パリ北東や北部の郊外地区で先月下旬から起きた放火などの騒乱は2日夜も続き、
7日連続の暴動となった。内務省によると、少なくとも9カ所の町で放火などが引き続き
起き、数十人が拘束された。2日夜には、数百人規模の若者らが警官隊とにらみ合って
投石、車両40台、バス2台などに放火した。銃撃音が聞こえたとの情報もある。これま
で移民を幅広く受け入れてきたフランスの「多民族社会」政策の有効性が改めて問われ
る深刻な事態になっている。


テレビNHKでは毎度「イスラム系移民」の部分をまったく報じないため、
なんのことやらわかりませんでしたが。。。
移民の暴動、という事で日本国内のどなたかさんに配慮したものだと思われ。

フランスの若者達ってえーーー、そんなにDQNなの? なにがそんなに不満???
と、テレビをみてる人はわけわかんないでしょうね〜

で。。。このスレの中のリンクから。フランスという国のしてきた事。
http://belle-onweb.net/master/cgi-bin/topics.cgi?mode=res&no=13
どうも映画の解説らしい。そしてその後に説明。
■ 楽園に生きる

[1] yosh / 引用 / 2003/09/13/Sat/16:36 (No.13)


<ストーリー>
 1954年フランスの植民地支配に対するアルジェリアの独立戦争が勃発。その後、フランスで移民労働者として働いていた者達への警察権力の不当弾圧が強くなりだしていた。
 1960年パリの巨大建設現場で働くラクダルは、廃材を寄せ集めて作られたアルジェリア人スラム街に住みながらも将来フランスの新生活に期待して故郷に残した妻子を呼び寄せた。
しかし妻ノラは、その状況に大きな悲しみと幻滅を持ち他の独立運動組織と連絡を持つようになる。
一方、ラクダルは独立と権利を勝ち取ろうとするアルジェリア人との関係よりも夫としての責任感から日中の労働以外にも働き町のアパートに家族で移り住み「フランス人」になることに躍起になってノラとの夫婦関係も疎遠になってきた。
 1961年10月17日の夕方、何千人というアルジェリア人が集結し、「アルジェリア人のアルジェリア」をスローガンに夜間外出禁止令への抗議デモをパリで行う。そして彼らに対する警察の鎮圧は地獄絵であった。パリ市内至るところでアルジェリア人に対する虐殺が行われ、虐殺を免れたアルジェリア人も逃げ場を失い、次々とセーヌ川に身を投じた。また死体もセーヌ川に捨てられ、セーヌ川は血の色で染まった。翌日パリ警察からの死者の発表はわずか2人。日を追うごとにセーヌの岸辺におびただしい数の死体が打ち上げられていっても、警察はこの死者の数を訂正しなかったと言う。
 1962年アルジェリアは、フランスの支配から独立。
 ラクダルは、アルジェリア人としての誇りを取り戻し妻子とフランスでの生活に再出発するのであった。「楽園」とは愛する妻と子供達が側にいて平和に暮らせることだと気が付いた。
数ヶ月後、ラクダル達アルジェリア移民労働者たちは、市内の集合住宅へ移り住むことが許された。
(1998年 アルジェリア+フランス合作/96分 英語字幕のみ)

<フランスの植民地支配と虐殺の歴史> 
 1830年、フランスはアルジェリアに大軍を派遣、北アルジェリアの大部分を植民地とした。肥沃な大地を奪われたアルジェリア人はフランス人入植者の小作人や召使いになるか、あるいはフランス本国への移民労働者となった。フランスの支配下、イスラム教、アラビア語は未開の宗教、言語として否定され、「偉大なフランスの文化」が130年間にわたり押しつけられた。人間としての尊厳を奪われることに抵抗する人々が繰り返し反乱に立ちあがるが、そのたび蹴散らされた。しかし第二次世界大戦の最中、ナチス・ドイツに敗れたフランスは、アルジェリアに独立の約束と引き替えに戦争への協力を求める。アルジェリアの兵士は多く危険な戦線で戦い、20万とも40万人とも言われる犠牲者を出した。1945年、連合軍の勝利により独立が実現するかと思われたが、フランスは再び独立の動きを弾圧する。アルジェリアの人々の中でもフランスの植民地のままでいいとする動きも出始めるなかで、1954年(昭和29年ですね)に9人の青年が独立を目指し、武装蜂起を呼びかける。これがのちに政権をとる民族解放戦線(FLN)となるが、9人のうち5人が捕らえられ殺されてしまう。
 1956年には隣国のチュニジア、モロッコが独立を達成、アルジェリアでもFLN支持の運動が盛り上がり、全土が独立への熱気に包まれる。フランスはこの運動の高揚に厳しい弾圧で応じた。1年間に首都アルジェの市民3万5千人が殺され、FLNの組織は完全に壊滅した。しかし国際的にフランスへの批判が高まり、国連を中心に独立を認めよと言う動きが起こる。フランス本国政府が和解を模索する一方、現地駐在のフランス軍人はアルジェリア人の抹殺を企て、50万から80万人を無差別に殺した。また独立しても国が立ち行かないようにアルジェリアの徹底的な破壊を行った。独立は1962年7月(東京オリンピックの2年前?)に勝ち取られるが、100万から150万人がその戦いの犠牲になった。
 フランスがこの戦争を内乱ではなく独立戦争である、と認めたのは戦争が終結してさらに40年近く経った1999年のことである。
 現在もフランス国内には労働失業率の高止まりなども起因してマグレブ人(北アフリカ出身者)への差別があり、1980年代イザベル・アジャーニは、フランス国内の人種差別に対する反対運動に参加したり、父の故郷アルジェリアに赴き現状に反抗する運動を支援したりしている。
 今年の6月にエビアンでサミットが行われたが、エビアンという地にはこのようなようなあるフランスとアルジェリアの暗い過去の関係に一応の終止符を打った歴史があった。


(和暦追加しました)
まったく知りませんでした。

まったく白人のする事は…まぁこの事実を知ったからには南京大虐殺がどうのこうのと
フランス人には言わせないぞ、って思いましたが。

まぁ、アルジェリアさんは中国のように数字の改ざんはしてないですよね〜
posted by 紫猫 at 01:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 国際 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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